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絶望を受け入れる奴だけが生き残る(「マッドマックス 怒りのデス・ロード」)

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「マッドマックス 怒りのデスロード」の感想とその他もろもろ

今年の夏は凄い映画が盛りだくさん

 

今年の夏は映画館が本当に凄い事になっている。

ターミネーター、ジュラシックワールド、アベンジャーズ、バケモノの子、海街Diary、インサイドヘッド、、。まだまだあると思うのだが、とにかく観に行かなければならない作品がこれほどまでに集中してしまう時期というのは少し珍しい。

僕は観に行く映画を決めるに当たって、自分の中でいくつかの基準がある。「観る必要なし」(これが大半)「日程が合えば観る」「何があっても観る」の3段階があって、だいたい監督の名前や評判を聞いて自動的に決まる。

ただ実の所、「何があっても観る」作品はそんなにあるわけでは無い。アカデミー賞向けが多く出る年末〜3月くらいには観たいものが多く集まるが、年間平均にならせば月に1本くらいのものだろう。

それでも1年で数十回劇場に映画を観に行くのは、単に僕が暇人だというだけのことだ。つまり実際に観る映画は「日程が合えば観る」映画がほとんど。そこまでの期待は抱かずに観に行くわけで、大して良くなくてもそれほどガッカリすることはなく、期待を上回ればより大きな満足感と感動を得られる。

期待感を「ハードル」という比喩で表す日本語はこの10年くらいで完全に定着しているわけだが、映画の評価というのはこの「ハードル」に大きく左右される事は間違いない。大きな期待を抱けば抱く程、つまりハードルが上がれば上がる程、その映画が観客を満足させる事は難しくなってしまう。

これは映画の作り手の側に立ってみると非常に辛い話ではある。有名になって期待を抱かれるほど、求められるものも高まって行く。かなり良いものを作っても評価が上がりきらなくなる。もしくは評価されても、評価される事自体が普通の事になってしまう。

こういう話は映画に限った話ではなく、ミュージシャンでも小説家でもあることだろう。ただ映画の場合この傾向がよりなのは、数ヶ月(長ければ数年)単位の宣伝がなされ、手の込んだ予告編が作られて、観客達の期待感を煽りに煽った状態で差し出されてくる事が多い為だ。

そういった事情もあってか、「行けたら行く」ぐらいの感じで観に行った映画が凄く良かったりすると本当に得した気分になる。そのようなタイプの感動というのは作品の中身とはまた別のものがあって、「その映画と自分自身の個人的な繋がり」のようなものを感じられるのだ。

 

「マッドマックス」は、そんなお祭りを一撃でぶちこわした

 

大きく話がずれそうなので少し戻すと、要は今年の夏はそういう本来ほとんど無いはずの「何があっても観る」映画が集中してしまったのだ。ある種のお祭りのような感じになって「この週はこれとこれを観なきゃ。いや、でもピクサーと細田を並べて観るってのもいいけどな」みたいな感じで、うきうきしながらスケジュールを組んでいた。

 

そんなお祭り気分が一瞬にして終わってしまった。

 

もっと正確にいうと、そんなほのぼのとしたお祭りをグチャグチャに踏みつぶして、全く次元の違う、一世一代のロックフェスティバルが始まってしまった、とでもいう感じか。

「マッドマックス 怒りのデスロード」は、先述の話で言えばもちろん完全に「何があっても観る」映画だったのだが、今やそこから進化して「公開中は出来る限り観に行く」になった。(ここから以下ネタバレを含みます)

砂漠をモンスターカーが爆走する「マッドマックス 怒りのデスロード」は、僕たちが今生きているこの世界の映画である。もっと強く狭めて言うなら、郊外化した街を、ゴミ屑の集積のような社会を生きる僕たち自身の映画だ。

フュリオサは、「故郷」を喪失したことで全ての希望を失う。悲嘆に暮れ泣き叫ぶ彼女だが、実際には全くその絶望を受け入れておらず、狂気に身を任せる事によってその埋め合わせを図る。その結果が「塩湖をあても無く進む」という選択だった。

この映画にフェミニズムを見いだすのは少々安直だと思う。むしろ逆に「意識高い系フェニムズム」に対する皮肉を、ここから読み取る事が可能だ。なおかつ僕が感心するのは、そういう表面だけ意識の高い自称リベラリスト・フェミニストも、彼らの欺瞞を許さない人たちも、同時に納得させるようなタイムリーな社会性だ。

特に「アナ雪」「マレフィセント」などのディズニー作品を筆頭に、最近の映画は「女性をどう扱うか」という事についてかなり気を遣って作られているものが多い。ゴーンガールもそうだし、偶然かもしれないがジブリ版「かぐや姫」にいたってはおとぎ話をフェミニズム的に解釈するという離れ業がみられた。

トーンは全く違うものの、映画中盤までのフュリオサは「アナ雪」のアナさながらに、完全に「自ら行動し戦う女性」として描かれる。「クリストフはなぜ業者扱いか」というゲンロンカフェの秀逸な対談もあったが、実際に主人公マックスも初めはフュリオサ達女性陣を助ける役割しでしかなかった。

「緑の地」なんてとっくに無くなっている事を、フュリオサはどこかで分かっていたはずなのだ。それでも無理矢理その存在を信じていたのは、それだけが生きる希望であったからに他ならない。そしてこの時に初めて、マックスの主人公としての内面が語られる。

 

「希望を持ってはいけない」

 

「希望を失えば、あとは狂気しか無い」

 

現実から目をそらさず、絶望を受け入れた者だけが生き延びる。「希望」という言葉で語られるものは、現代ではもはや単なるドグマでしかない。「希望」はかつてあった古き良き日々を投影しただけの幻だ。「男に頼らず生きていくってか。そいつあ良かったな。じゃ、頑張れよ」みたいな、最近の映画全般に対する強烈な突き放し、批評性がここにある。

カラオケボックスとラブホテルとファミレスしかない日本の郊外がディストピアとして語られる事は多い。その中で人々は500円のジーンズを履きながらリンゴの絵がついた10万円の機械をひたすら指先でさすり、パズルという名の単純作業に勤しんでいる。これを滑稽と言わずしてなんと言おうか。

この地獄をいかに抜け出すかという事をテーマにした映画が「ファイト・クラブ」だ。フィジカルな殴り合いによって人々は生の感覚を取り戻していくものの、次第にそれ自体が消費のパターンに組み込まれてしまい、結局もともといた場所に戻ってきてしまい、どこへも行けずに終わる。

 

「ここではないどこか」をどれだけ求めても、そんなものは存在しないのだ。

 

しかし人はそれを受け入れられない。ある人は希望を持っているふりをしながらぼんやりとお茶を濁し、ある人はナイーブにも突き進んだ結果落胆して塩湖を進み、他は全員iPhoneでパズルゲームをしている。だんだん鬱屈が溜まってくると自分の周りにいるマイノリティを攻撃する。その攻撃しているやつらを攻撃して自分は正しい人間だと思い込む。

こういう腐った人生を送らない為にはただ一つ、絶望を受け入れるしかない。故郷は既に失われてどこにも無いという現実を直視するしか無いではないか。それがマックスのメッセージなのだと思う。