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でじはうす : プラスアルファな情報を熱量込めてお届けします(旧・なつみ憂のブログ)

なぜ今「スクールカースト」か? - 朝井リョウ、R-指定に見る教室内的想像力

ここ数年で、「スクールカースト」という言葉が一般的に定着した。

 

本田由紀の弟子・鈴木翔による、その名もずばり『教室内(スクール)カースト 』という新書が出て話題になったのが2012年の12月。このあたりから、それまで漠然と捉えられていた「教室内の上下関係」というものがより明確に意識されるようになった印象がある。そして同年の8月、この一種の「スクールカーストブーム」の伏線ともなったといえる映画が公開された。『桐島、部活やめるってよ 』である。

 

スクールカースト

 

『桐島』は後に直木賞を受賞する朝井リョウの小説を原作とした青春群像劇だ。『クヒオ大佐』や『パーマネント野ばら』などで知られる吉田大八が監督し、氏の評価を決定的にした作品でもある。学校の教室特有のイヤ〜な感じを容赦なく突きつけてくるような、圧倒的にリアルな人間関係描写や演出は、少なくとも「学園モノ」としては確実に日本映画史に残るであろうインパクトを残した。

 

スクールカーストをテーマにするにあたって『桐島』が特に優れているのは、その繊細で考えぬかれた演出それ自体が、「教室内にある陰湿な人間関係」を浮き彫りにしていたという点にある。中学校・高校である程度濃い人間関係の中にいた人であれば、その中にあるドロドロとした同調圧力や排他的な空気を憶えている人は多いと思う。そういった、誰もが確実に感じていたであろうけども、なかなか言葉に出来なかった、ましてや劇映画として再現し得なかった空気が、『桐島』の中には確実に存在している。実際に『桐島』を観て拒絶反応を覚えてしまった人は多い。特に学生時代に抑圧された経験が無くとも、映画の観客としては主人公・前田に共感せざるを得ず、劇中の前田の悲惨な光景を目にしてのたうち回ることになる。

 

そもそもスクールカーストは、アメリカ映画ではすでに80年代に語られ尽くしている。その代表が『ブレックファスト・クラブ』『プリティ・イン・ピンク』を筆頭としたジョン・ヒューズ作品である。『ブレックファスト・クラブ 』はスクールカーストを相対化した映画で、普段交わることのないクラスタの面々がたまたま休日登校で一同に会し、次第に各々が胸の内を語り始め、心を通わせていくという話だ。このように説明すると、最終的にイケてるグループの不可能性を提示する『桐島』と比較してアメリカのスクールカースト批評は80年代にしてなんとも大人である。

 

実際にアメリカではかなり前から、ジョックス(イケてる男子)、クイーン・ビー(イケてる女子)、ナード(キモヲタ)という用語が確立されているほどで、スクールカーストが日本に比べて遥かに自明視されている。2009年から放送されたドラマ『glee/グリー 』は、このスクールカーストというデータベースにアメリカ的なマイノリティの問題を加えた上で、大衆音楽の可能性をこれ以上ないほど感動的に提示するという離れ業を見せてくれた。また、2008年の映画『アメリカン・ティーン 』ではあろうことかドキュメンタリーでアメリカ的スクールカーストのさらなる相対化を図っている。

 

日本とアメリカで、スクールカースト=教室内の人間関係に対するアプローチがなぜこれだけズレているのか。ステレオタイプな推論をすると、例えばアメリカ特有の弱肉強食的な価値観が子どもたちにもそのまま反映されているということは考えられる。そもそも、ジョックスの典型であるアメフト選手というのは、西武開拓のフロンティアスピリッツを投影される存在であり、アメリカ的な男らしさ・強さの象徴だ。そしてそれを応援するチアリーダーがペアになる、というのはじつにしっくり来る図式である。

 

日本的な精神を最も感じる部活動といえば、剣道部だろうか。しかし剣道部や柔道部がいわゆるクラスの上位層になるということはあまりピンと来ないと思う。しいて言えばサッカー部やバスケ部が「花型」としてイケてるグループに分類される事が多いが、ジョックス的な明確な権力構造は読み取りにくい。個人的な経験も混ぜて言うと、いわゆるスクールカースト的な階層は、もともと個々のサッカー部やバスケ部や野球部、あるいはそれぞれの女の子グループなど、小さな集団の中にだけ存在していたのではないかと思う。

 

ここで、ある象徴的な日本語ラップの曲を取り上げてみる。AKLOが(こちらも奇しくも)2012年に発表した傑作で『Package』というアルバムがある。日本語ラップの歴史を大きく更新したと言われる名盤で、僕自身も何度も聞いたアルバムなのだが、ここではその9曲目に収録されている「サッカー feat. JAY'ED」という曲を取り上げたい。

 

練習なら誰よりもした、
おかげで二軍の奴は越した
はずなのに上がれない
スタメンに名前が現れない
ニヤついた奴らがムカついた
誰よりも上手くなりたくて火がついた

 

キャプテンが監督みたいなもん
奴に嫌われちゃ無い未来はもう

 

 

おそらくAKLO自身の経験に即して書かれたと思われる歌詞で、学生時代にクラブや部活でサッカー(他の部活でももしかしたらそうなのかもしれないが)をしていた人には身につまされるような思いがするのでは無いだろうか。今思ってみても、サッカー部内特有の陰湿な人間関係というのはちょっと異常なところがある。日本サッカー論というか教育論みたいな事を言うつもりは無いのだけれど、あれほど強力な同調圧力の中で「個の力が重要だ」などとどれだけ強調してもしたり無い、というか焼け石に水だと感じる。

 

要は、カーストはあくまで個別の集団の中にあって、教室全体で意識されることは無かったのだ。無論「イケてるグループ」「イケてないグループ」の区分けはあったが、ある時代まではそれらが陰湿な歪みを生み出すことは無かった。いわゆる島宇宙化である。

 

宮台真司によれば、島宇宙化=同じ価値観の者同士が集まってグループを形成し、各グループの連関が失われるような状況は90年代に進行する。AKLO自身は年齢を公表していないが、ラッパーとしての経歴を見るとこの時期に学生時代を過ごしていた可能性が高い。一般に同じ価値観の者同士が戯れ合う島宇宙は平和なイメージを持って語られるが、各島宇宙内でのカースト的な抑圧構造は間違いなくあったはずだ。AKLOが言及していたような、ある小さな集団内での歪みはいろいろなところにあったのではないかと思う。つまり、スクールカースト的な差別構造はさらに細かい、個々の集団に分散される形で存在していたと考える事ができる。

 

しかし、その歪みの現場が「教室」に移される時代が訪れる。再び日本語ラップから、R-指定というラッパーの作品を取り上げる。

 

やっぱ肩身狭いよな
あんなカーストの中じゃ
俺はあくまで脇役だった
溜め込んだ恨みや辛みやルサンチマン
思い出して来たほら古傷が痛む
白い目や笑い声や後ろの指が
ねじ曲げた人格その結果“今”

 

※ちなみにYouTubeには『桐島部活やめるってよ』の映像を用いたMADも存在する

https://www.youtube.com/watch?v=218s7ufJi9w

 

始まりの数行を見ても、スクールカーストを意識していることは明らかである。そして歌詞の全体を追っていくと、学生時代にカーストの上位層から抑圧されていた歌い手(おそらくR-指定自身)が、ラップという武器を携えて復讐を誓うという構図が示されている。そこに込められた恨みの深さは、コロンバイン高校銃乱射事件の犯人二人組が「トレンチコートマフィア」と自称していた事から考えても十分察する事ができる。要は、皆殺しにしたいほどムカついてたのだ(と、僕はこの曲を聞いて思った)。

 

R-指定はラップ/HIP-HOP好きの人には今や説明不要の存在だ。即興で相手をディスる(罵る)ラップバトルの日本一を決める大会「UMB」で2012年-2014年に3連覇を果たした、誰もが認める完全な実力派ラッパーである。言葉選びやステージ上での気迫、頭の回転、そして基本的なラップのスキルのどれをとっても全く文句の付け所は無い。さて、一般的なイメージとして、ラップやヒップホップはクラスのイケてる集団が好みそうな音楽と考えられている。一方でUMBで3連覇を果たした、現在最も注目されている若手ラッパーが、このような「ルサンチマン」を歌うのは何だか不自然な感じを受けはしないだろうか。

 

R-指定は1991年生まれで、ラッパーとしてもまだかなり若い。そして、1989年生まれの朝井リョウと非常に近い年代であることにも注目したい。2000年代に学生時代を過ごした両者に、それまではぼんやりとしていた「スクールカースト」を明確に意識させる契機が存在したことが伺われる。そしてR-指定と朝井の両者とも、温度差はあれど「イケてないグループ」の側から物事を訴えている事が重要である。

 

いったんここで、一本のバラエティ番組を取り上げてみよう。『アメトーーク!』の中でも屈指の神回と名高い「中学の時イケてないグループに属してた芸人」である。2008年に放送され、特に博多大吉の「焼却炉の魔術師」や「捕虜」、ロバート山本の「与謝野晶子」といった名フレーズがいくとも飛び出し、収録されたDVDは今見ても大笑いできる。そして個人的にはこの回が放送された時こそ、イケてないグループが「発見」された瞬間では無かったかと思う。

 

もちろん、それ以前にも教室内の上下関係やいじめを描くドラマや漫画はいくらでもあっただろう。しかし、例えば北乃きい主演の『ライフ』や『金八』『GTO』などはある特定のいじめられっ子を問題にして、社会派ドラマの風体を装っていただけであって、構造としての「イケてる」/「イケてない」=スクールカーストを描くには至っていなかった。惜しいところでは『野ブタをプロデュース。』や『伝説の教師』にいじめられっ子を相対化するような話が出てくるが、やはりそれは単純ないじめの問題でしかない。

 

スクールカーストがいじめと決定的に区別される点があるとすれば、それは「性的な問題が介在するかどうか」である。

 

『桐島』の場合は非常にわかりやすく、イケてるグループの男女にはセックスが絡んでいる事が暗示される。そして、イケてないグループは当然の事ながら、全くモテない面々として描かれる。また、財団法人日本性教育協会のデータによると、高校生・大学生の男女ともに、2000年代の中頃にデート経験率/性体験率がともにピークに達している。

 

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参照:http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2460.html

 

もちろん、イケてないグループに属されるとされる子たちが一気に性に乗り出したという見方が出来ないわけでは無いが、実際にはイケてるグループによる性的な成熟が進んだ結果、より明確なスクールカーストが確立されていったと考えられる。また、無理やり社会反映論的な言い方をするのであれば、当時の小泉政権下の新自由主義的な空気が、教室内にも別の形で影を落とした、という事もあるのかもしれない。

 

朝井やR-指定が、実際に当時学校でどのような立場だったかはこの際置いておこう。要はこのような、学校・教室内での性の前景化が、90年前後に生まれたクリエイターの感性を刺激し、また、『アメトーーク!』のような番組が「昔はイケてなかった」こと自体がネタになるような空気を醸成していった結果、『桐島、部活やめるってよ』や『トレンチコートマフィア』のような、いかにもスクールカースト的な要素を持った作品が世の中に受け入れられて行ったのではないだろうか。

 

ただそもそも、スクールカーストをラップのリリックや小説のネタにするというのは、想像力としてあまりに狭いという批判もあり得る。なんといっても、教室=世界という構造の中で彼らは生きているのだから。しかし、朝井やR-指定が突然「国家権力への抵抗」や「世界平和」みたいな事を表現し始めたとしても、それは全く陳腐でリアリティを欠いたものとして受け止められるだろう。僕自身も、彼らには全くそういった作品を求めてはいない。自身の就職活動の経験や学生時代に感じた葛藤を文章にしていく朝井、教室内でのルサンチマンやラップバトルそのものの魅力をヒップホップで表現するR-指定は、間違いなく日本の今後を担うトップクリエイターである。もしスクールカーストが議題としてしょぼいというのなら、それは彼らではなく、言わば日本全体の想像力を悲観すべきだろう。