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でじはうす : プラスアルファな情報を熱量込めてお届けします(旧・なつみ憂のブログ)

スター・ウォーズ展を見に行って思った事 - 世界史とフィクションのあいだ

ちょっと前なんだけど、「スターウォーズ展」に行ってきた。

 

スターウォーズ展

 

この展覧会は映画内で使わた衣装や小道具を展示するだけのものではない。メインの展示物は、スターウォーズのファンたちが描いた絵画である。スターウォーズは「カルト映画」の代表とされていて、公開直後から多くの人の人生に影響を与えた。その中でも絵が得意な人たちは、スターウォーズからインスピレーションを受けて様々なアート作品を勝手に作っていたのだ。そしてその中でも特に評価が高く、公式にも認められた一部の作品が今回の「スターウォーズ展」の主役なのだ。ルネサンス期の油絵のようなものから現代的なアメコミ風のアート作品まで、絵としての手法や志向は様々なのだが、それらの全てがスターウォーズの世界観を表すものとなっている。

 

正直に言うと、僕はこの展覧会がそのようなものだとは知らずに会場まで来たので、展示内容について知った時にはかなり驚いた。実写映画に関する展覧会が美術館で行われると聞けば、普通はそれこそ作品中で使用された衣装や小道具、脚本などの「実際の資料」がメインで展示されていると想像する。しかし実際に来てみると、スターウォーズという映画の中の資料ではなく、単なるスターウォーズの「ファンが勝手に」描いた絵画作品がその中心なのだ。もちろん個々のアーティストや作品に対してはジョージ・ルーカス(スターウォーズ第一作の監督であり、シリーズ全体のコンセプトやストーリーを決定している、スターウォーズの生みの親と言える人物)のお墨付きを得ているので、著作権的な問題も全く無く、むしろある程度の正当性を認められている。これは少し立ち止まって考えてみると非常に奇妙な状況だ。言ってしまえばそれは「レベルが高くて作者も認めた二次創作」であって、それがこんなにちゃんとした美術館で生真面目に展示されているのだから。

 

一応僕とスターウォーズの距離感についても説明させていただきたい。僕は映画が好きなのだが、いわゆるスターウォーズマニアではない。80年代中盤生まれという世代感で、物心ついたときにはエピソード4〜6(旧三部作)のブームはほぼ終わっている時代だった。エピソード1〜3(新三部作)が公開された時には中高生で、その盛り上がりはかなり記憶に残っているのだが、当時は映画自体にあまり興味がなく、「なんか凄そうだけど、なんとなくオタクっぽいなあ。おれはいいや・・」みたいなことを思って劇場に観に行くことももちろんなかった。その後大学生になって映画を結構見始めて、そろそろ観なきゃまずいだろう、という感じで一気に6作続けて観た、というのが僕とスターウォーズの出会いなのだ。そしてあまりにも素朴に、「なんて壮大な話なんだ」とか「キャラクターや小道具が魅力的!」とか思っただけで、深くのめり込むことは無かった。ただ映画史における「スターウォーズ」シリーズの存在感が極めて貴重なものであることは理解していて、客観的には本当に凄いと思っていたし、主にタマフルなどで観られるようなマニアたちの熱のこもったワイワイガヤガヤぶりはそれ自体が楽しい。つまりスターウォーズのマニアでは無いけども、映画およびエンタテインメントとしては個人的に関心が高い、という位置づけだろう。そしてそういう人は僕くらいの世代の映画好きには結構多いと思う。

 

そんな僕がこの展覧会を見てどのように思ったか。

 

やはり、美術の展覧会としてはかなり異質なものだった。それはこの展覧会が、作家の個性や思想を表現するものではなく、ディズニー = アメリカの政治的な方向性を示すマニフェストのように感じられたからだ。

 

僕は美術展や美術館にはわりと行くほうだと思う。海外旅行に行ったら大体その都市の有名な美術館に行っているし、この丁度一年前には同じ美術館に「篠山紀信展」を見に行った。当たり前のことだが、美術館の常設展では「ある時代の、ある作家の、ある作品」が「ある時代の、ある作家の、ある作品」として展示されている。つまりある国や地域の歴史を証明するものとして存在しているのだ。これは美術作品に限ったことでは無く、建築物や遺跡のようなスケールのものにも同じことが言える。東浩紀は『弱いつながり』の中で、このような「モノ」の働きについて「定義論争のループを止める」ものだと説明している。以下は僕自身の考える例だが、たとえば「アメリカは日本に原爆なんて落としていない」という主張する歴史研究家がどこかに登場したとしよう。そういう人は「キノコ雲の映像やあらゆる資料はすべて捏造だ」と言うかもしれない。あるいは「あれはアメリカが国として原爆を落としたという行為には当たらない」とか「あれは物理学的に原子爆弾とは言えない」という学者が出てきたとしよう。この場合は「国家としての意思」や「原子爆弾」の定義そのものをねじ曲げて議論を進めるような事態となっている。しかし、万が一そのような状況になったとしても、原爆ドームという三次元的に存在している「モノ」には、定義論争を止めるほどの力ある、というのが東の説明である。原爆ドームや原爆の展示資料を目にした人であれば、途方も無い惨劇がそこで起きたという事だけは現実として受け入れざるを得ず、定義論争が議論の本質では無いことに気づくことができる。「写真で見ると実際に見るとじゃ、大違い!」のような単純な話とは少し違うのだ。

 

つまり何が言いたいのかというと、美術館の様々な役割の一つとして「過去=歴史の証拠」というものがあるのだ。原爆ドームがあまりに現代的でデリケートな例だとしても、例えばゴヤの『マドリード、1808年5月3日』を見れば当時のヨーロッパの混乱ぶりを知ることができる。また、神話的な歴史、西欧的にいえばキリスト教も多くの絵画のモチーフとされている。あまり知られていないが、ヨーロッパでは庶民の識字率が大きく上がったのはわりと最近のことで(参照:小室直樹 日本人のための経済原論)、活版印刷機が登場した後も、多くの人は聖書を読むことが出来なかったらしい。人々にキリスト教を広めたのは聖職者の説法が第一だが、数多のキリスト教美術による非言語的なコミュニケーションがやはり大きな役割を果たしていた。「人間は神様が創りたもうた」という話は、キリスト教信者にとっては歴史として、言葉とビジュアルの両面で伝えられていたのだ。

 

このようなことを踏まえてみると、今回の「スターウォーズ展」では、スターウォーズという6本の映画とその間・前後で流れた時間を、あたかも本当の歴史であるかのように、堂々とでっち上げていると考える事ができる。

 

明らかにキリスト教的な油彩画を意識していると思われるような作品が序盤に沢山あったり、登場人物たちの肖像画が世界史上の偉人であるかのような風体で描かれている絵もある。他にも、「民衆を導く自由の女神」を彷彿とさせるような、作中の戦争を再現した絵も印象的だった。特に記憶に残っているのが、くすんだ赤×黒のコントラストと幾何学的なレイアウトが明らかにナチを彷彿とさせるようなポスターアートである。ドロイドが帝国軍のエンブレムが描かれた旗を振りかざす「VISION OF BATTLE ~戦いと兵器~」と銘打たれたこの作品は、「アメリカにとっての敵国=同盟国=帝国軍」に対して不謹慎なあこがれを隠し切れないという、誰もが抱き得る中二病的な感性の、最も洗練された表現の一形態だ。

 

また繰り返しになるが、今回のスターウォーズ展はスターウォーズという映画の裏側を公開することがテーマでは無い。しかしその一方で、劇中で使用された衣装や小道具も展示されてはいる。問題はその展示のされ方である。メトロポリタン美術館には十字軍の鎧や、日本の戦国時代の甲冑が展示されている。また、「武器の歴史」みたいなコーナーがあって、南北戦争で使用された銃などが大量に展示されているスペースもある。「スターウォーズ展」での衣装や小道具の置かれ方は、まさしくメトロポリタン美術館のそれであった。実際に0BBYにヤヴィンの戦いが起きて、その中でこの武器が使われました、といったスタンスで展示がなされているのである。

 

ジョージ・ルーカス個人はファンによる二次創作に対してある程度は寛容な事で知られており、だからこそこのような展覧会が日本で実現していることは間違いない。

 

ただ僕には、このような「別の歴史をでっち上げる」かのようなスタンスは、いかにもディズニー的なものに見えてしまう。

 

一応断りを入れておくと、僕は「歴史をでっち上げる」という事を非難をこめて言っているわけでは無い。こうした「でっち上げ力」みたいなものこそがディズニーの本質であり、多少大げさに言ってしまえばそれが21世紀の私達の生活に大きく関わっていると思うからだ。

 

カリフォルニア州アナハイムに最初のディズニーランドが開業したのは1955年。今では想像しにくいが、ディズニーランドが成功するとは、当のウォルト・ディズニー以外には誰も信じていなかったそうだ。

 

"これはユートピアとしてつくったアニメーションスタジオ、鉄道を敷いた新居に次ぐ、彼の三番目の「夢の王国」であり、これまでよりも遥かに規模の大きなプロジェクトだったのです。"
(速水健朗『都市と消費とディズニーの夢 ショッピングモーライゼーションの時代 (oneテーマ21)』)

 

ウォルト少年は少年時代から絵画やアートに興味があった一方で、鉄道員の父の影響で自宅にミニチュア鉄道を作って遊ぶことを趣味としていた。「コントロールされた一定の空間」に対して、もともと関心を持っていたことが伺える。つまりディズニーランドは、ディズニーのコンテンツをネタにして客を集める場所ではなく、現実から隔離された異空間を作りたいという、ウォルトの欲望によって作られていたのだ。

 

"ディズニーランドは遊園地と区別し、テーマパークと呼ばれます。遊園地とテーマパークの違いとは何でしょうか。テーマパークとは、ひとつの世界観に貫かれ、そこを訪れる者に現実世界との連続性を感じさせないようコントロールされた環境のことを指します。"
(同前)

 

そして速水の著書では、こうしたディズニーランドの理念が現代の「ショッピングモール」と深いつながりを持っていることが示されている。中流階級が郊外に流出して都市部が衰退し始めていた50〜60年代のアメリカでは、新しいスタイルの商業施設が必要とされていた。都市計画家である建築家のビクター・グルーエンは、かつて都市の中心にあったダウンタウンのような公共空間を、郊外の商業施設で再現する。ららぽーとやイオンモールをはじめ、現在世界各地に見られるショッピングモールは、基本的にこのグルーエンの理念を踏襲しているといって良い。またフロリダのディズニーワールドには、EPCOTというパークがある。ディズニーワールドを構成する4つのパークのうちの一つで、「実験未来都市」= "Experimental Prototype Community of Tomorrow"の頭文字をとってEPCOTと名付けられているのだが、これは名前の通り、はじめは本物の都市を作ってしまおうというウォルトの考えのもとに形成されたコンセプトがもとになっている。そして、EPCOTを構想する上でウォルトが参考にしていたのが、グルーエンのショッピングモールだったのだ。

 

何度も繰り返されてきた話ではあるが、ショッピングモールは左翼的な知識人から嫌われており、ストリートや商店街を潰す資本主義の権化とされている。(筆頭がこちら:ファスト風土化する日本―郊外化とその病理)しかし現実にはショッピングモールが多くの消費者・生活者によって支持されているのは明白であり、そうした現実と向き合う事が重要である。そのように考えた時、グルーエンを始めとした都市計画家や建築家たちの理念のもとに形成されたショッピングモールが、現代の消費者に受け入れらるのはある程度の必然性があることに気づくのである。

 

流動性と多様性が高まった社会では、商店街的なコミュニティに対して居心地が悪いと感じる人が確実に増える。確かにそこには人と人との温かいつながりがあるだろう。しかし消費という場面でそれが必要だろうか。また、個々のつながりが深い分、排他的な面があるのでは無いだろうか。一方でショッピングモールは、商店街的なつながりは一切感じられないだろう。しかし誰もが自由に出入り可能で、親子連れや高齢者・障害者に対しても実に優しい設計になっている。無個性で無機質である分、誰に対しても開かれている。こうした特徴を備えたショッピングモールが現在の日本で受け入れられるのは当然だ。

 

そしてもう一つのショッピングモールの特徴としては、他の空間との隔絶というものがある。ショッピングモールに行くとき、多くの人は車で自宅から向かう。その途中でコンビニやスタンドに寄らない限り、ほとんど他の空間を体験すること無く、家とショッピングモールを直接的に行き来することになる。また、ショッピングモールは建物であるはずなのに、その外観については全くデザイン上の注意が払われない。これはショッピングモールの性質上、それが建物であるというよりは、その中で一定の時間を過ごす「街」のような場所であるという理解があるためだろう。個々のショッピングモールがどこの街にあったとしても、そういった文脈を全く無視して、別の街がそこに出現しているかのように振舞っている。公共空間をでっち上げるというグルーエンの理念は、確実に現代にまで受け継がれているように思う。

 

やっとスターウォーズ展の話に戻る。要はこのような空間的なコントロールを、次は時間的に行おうとしているのではないか。あるいはその手法を探っているのではないか、というのが、僕がスターウォーズ展に行って感じた率直な感想である。そして、この美術展覧会としてはシュールともいえるスタンスを見る限りは、ある程度のところまでは「時間に対するアプローチ」を確信的に行っていることは間違いないと思う。

 

ウォルトのミニチュア鉄道は21世紀にショッピングモールに結実したわけだが、スターウォーズ・サーガというある一人の男の妄想が未来に何をもたらすかは今のところまったくわからない。ただしそれがアメリカからやってくるという以上、ショッピングモールが現代の消費者・生活者を受け入れたように、消費社会に対して新たな側面をもたらすようなものになるはずだ。

 

要はディズニー的に「歴史をでっち上げる」というのは、本来「歴史修正主義」と言われるようなものとは全く違う。本来の世界史的な歴史は正当な歴史として認めはするけれども、スターウォーズのようなフィクションですら、テクノロジーによって正当な歴史と同じくらいのリアリティを獲得できるのだぞ、というような意味である。

 

アメリカ合衆国は18世紀に建国され、日本・ヨーロッパの他の先進国に比べて圧倒的に歴史的な蓄積が少ない。そもそも神話的なモチーフを数多く備えた「スターウォーズ」がこれだけカルト化したのも、アメリカに国としての通説的な民話の存在しなかったため、その代替となりうる話として多くの人がハマったのだ、という見方もある。たとえ二次創作的なものであっても、確かなリアリティさえあればそれはスター・ウォーズの歴史である。私達がディズニーランドで日常を忘れられるように、ショッピングモールというでっち上げの公共空間で消費を楽しめるように、今はフィクションでしかない歴史が本当の歴史と取って代わるほどの力を持つというのは、全く考えられる事態である。